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人間行動基礎論(担当教員:今井久登)
レポート論題

東京女子大学の今井久登教官のレポート課題です。授業の内容,および授業内容に関連して自分が調べたことについてまとめればよい。課題1を選べば,授業に数回(一単元分)出れば十分である。 2008年度冬期の詳しい課題は こちら

課題について

★Ria★のオススメは,
課題1:(個別的な課題)後期の授業で取り上げた内容のうちから,自分がもっとも興味を持った題材を選び,考察して論じる。
(1)題材を選び,まとめる
後期の「人間行動基礎論」の授業で取り上げた内容のうちから,自分がもっとも興味を持った題材を選び,それが何かをまとめる。
(2)授業内容および自習内容を踏まえて論じる
選んだ題材について,後期の授業の内容や,それについて自分で調べた内容を踏まえて考察し,論じる。
(3)レポートを通じて学んだ事を論じる
このレポートの作成過程(題材選び,自習,考察,執筆など)を通じて何を学んだかを考え,論じる。
の方です。こちらの方が範囲が狭いので,まとめやすいうえに,授業も数回分の内容で十分書けます。

内容例

以下のレポートでは,
(1)題材を選び,まとめる:第1〜3回の授業で取り扱ったスキーマについて。授業の内容を要約し、自分の日常生活での実例にあてはめることで授業内容の理解を確認した。
(2)授業内容および自習内容を踏まえて論じる:認知療法をもとに考え出された「スキーマセラピー」について調べた。それから,ハヴィーガーストが提唱したライフサイクルの枠組みで「スキーマセラピー」を検討した。
(3)レポートを通じて学んだ事を論じる:レポートを書くときの校正の大変さおよび重要性についてなど。

注意




本文 まる写しはやめてください。 last update (2009年1月24日) pdf版

 このレポートでは、私が特に興味を持った「スキーマ」という概念について考える。まず、「スキーマ」を扱った授業の内容を要約し、自分の日常生活での実例にあてはめることで授業内容の理解を確認する。次に、人間の生涯の文脈の中でスキーマについて考えることにする。その手掛かりとして、認知療法および「スキーマセラピー」について調べた内容を要約する。最後に、それらをもとに、自分の人生を振り返ることを含めながらハヴィガーストのライフサイクルの枠組みでスキーマセラピーを再検討することを試みる。

 

スキーマとは(授業の要約および理解の確認)

 スキーマとは元来「図式」や「計画」を示すギリシャ語のschemaを語源とし、心理学や認知発達の理論においては「経験を通じて蓄積された知識に基づいた、活動(行動系列)や理解の枠組み」を指す。スキーマは抽象的で一般化された知識の体系でたがいに関連付けられた階級構造を持ち、また経験とは異なった場合でも充填される。例えば、私はキャンパスの学生食堂を利用するにあたって、「食堂に入るとまず自分が食事をする席を探し、荷物を置くことであらかじめ自分の席を確保する。それからお盆をとり、自分が食べたい物のカウンターで注文して注文したものを受け取り、別のカウンターで勘定を払い、温かいお茶と水を混ぜて自分と友人が飲むお茶作ってから席に戻って食事をする」という暗黙の行動系列がある。この行動系列がそれまでの私の食堂を使用した経験や友人や先輩方のアドバイスをもとに形成されたスキーマである。

 

スキーマには、(1)複数の情報に統一的な解釈を与える、(2)多義的な情報を解釈する枠組みとなる、(3)明示されていない情報を補う、という三つの主な機能がある。

スキーマの第一の機能は複数の情報に統一的な解釈を与えることである。例えば、「布が破れたので、干し草の山が重要だった」という一文のみを初めて読んだ人は文意を理解できない。しかし、荷物を付けたパラシュートの絵を見せられ、「パラシュートの布が破れたので、荷物を受け止める干し草の山が重要だった」という補足説明を受ければ、始めの文章の意味を理解することができる。ここではパラシュートの絵が始めの文章の個々の情報を結びつけ、統一的に解釈するための枠組みを与えるスキーマであった。

スキーマの第二の機能は多義的な情報を解釈する枠組みとなることである。例えば、Bとも13とも見える文字を見たとき、その文字がACに挟まれていればBと解釈されるだろうし、また12と14に挟まれていれば13と解釈されるだろう。文字、図形や絵に限らず、ある男の朝について述べられた同じ文章でも、その男がエリート証券マンだと思って読むか、失業者だと思って読むかによって、読み手の文章には直接明示されていない肉付けが変わり、そのため受ける印象が異なってしまう。鏡の前で身だしなみを整えてネクタイを締める同じ場面でも、前者ではしっかりした男がその日の取引に備えて気持ちを引き締めている場面が浮かぶだろうし、後者では疲れてやつれた男の憂鬱そうにその日の仕事の面接のことを思い悩んで売る場面が浮かぶだろう。

 人間があいまいな対象を解釈するときには無意識的な心の働きが介在する。私が友人と大学の教務課が作成しているホームページのマスコットキャラクターユータスくんについて話していた時に、ユータスくんをペンギンだと解釈した人とカラスだと解釈した人とがいた。単なるキャラクターでも、キャラクターの作成者にとってはもとなっている動物は一つだったとしても、見ている人の解釈は複数ありうるのである。カラスと解釈した人は、無意識に東京にはカラスが多いというイメージがあったのかもしれないし、ペンギンと解釈した人は、無意識にカラスよりペンギンのキャラクターが多いと感じていたのかもしれない。授業では扱われなかったが、「婦人と老婆」などのだまし絵はその時の見ている人の無意識な心の働きによって認知のされ方が異なることの一例である。

 スキーマの第三の機能として、明示されていない情報を補う「デフォルト値」を提供することである。例えば、子供が「お母さんは?」と尋ねたのに対し、「スーパーだよ」と答えたとき、この会話を聞いている人は直接口に出されていなくても、子供は母がどこへ行ったのかを尋ねていて、スーパーは近所のスーパーマーケットを指し、そのうち買い物から帰ってくることが分かる。このように、我々は明示されていない情報は、自分の経験や価値観に基づいた、もっとも一般的と思われるもので補っている(デフォルト値)のである。このことを利用した広告や詐欺は数え切れない。

 

 スキーマは人間が社会生活を営む上で欠かせないものではある一方で、ユニークで個性的な発想を妨害したり、間違ったスキーマで理解していることに気付かず「わかったつもり」になってしまったりする危険性が潜んでいる。例えば、我々は「平面上の大きな盛り上がり」のような絵をみると、大抵それをつばのある帽子を横から見たものだと解釈する。しかし『星の王子さま』では、主人公はこの絵を「蛇に食べられた象を横から見たもの」だという。異なる解釈のありうるものでも、スキーマが異なる解釈が阻害されてしまうのである。

そのため、スキーマという枠組みは、その枠組みでみている対象のものごとの間違いに気付きにくくさせてしまう。私は株式会社U-Teeという学生が経営する企業で小学校、中学校、および高等学校の参考書の校正のアルバイトをしているが、一度間違いを見逃してしまうと、同じところを読み返しても、やはりその間違いには気づきにくい。そのため、より正確な校正を行うために、校正は必ず同じ原稿を二人以上で校正し、同じ人が校正をするときは、時間をあけて再校正を行うようにしている。

このようなスキーマの落とし穴は文字や単語に限ったことではない。我々はものごとの個々の情報が理解できてしまうと、その全体も統一的に理解した気になってしまう。例えばパラダイム論では、中世ヨーロッパではキリスト教の「神が世界を人間中心に作った」というキリスト教の教義に基づいた確かな認知の枠組みがあったために、長い間実際の観測結果により理論が一致する地動説よりこの認知の枠組みにより合う天動説が信じられていた。そして、地動説も「太陽には生力がある」という認知の枠組み(スキーマ)に基づいていたのである。これらはどれもスキーマに基づいた誤った解釈であると考えられる。

一方で、失敗の多くは「常識はずれ」のことに過ぎず、接着剤の失敗作からメモ書きをするのに便利なPost-itが生まれるなど、大多数の人のスキーマという理解の枠組みの外に発明の鍵があることもある。

 

同じ行動を繰り返しているうちに、形成された行動系列でも、不注意によりスキーマが“誤作動”していまい、思わぬ誤りを招くことがある。人間の誤りには、行動の意図そのものが誤っていたミステイク、意図していなかった行動をとってしまうアクション・スリップ、および行動をし忘れるし忘れの三種類の誤りがある。スキーマの“誤作動”に基づくのは、これらのうちアクション・スリップだけである。

我々のスキーマの中の「こうすれば、こうなる」という行動系列の「こうする」の段階で誤ってしまうのがアクション・スリップである。日常生活の中のアクション・スリップには些細なことが多いが、アクション・スリップやアクション・スリップに基づく誤解が惨劇をもたらすことはあり、実際飛行機墜落事故の原因のほとんどはアクション・スリップに起因している。

Donald NormanATSモデルによってアクション・スリップを説明した。われわれがある意図を持つと、その行動を行うためのアクション・スキーマが活性化され、その結果さらに下位のスキーマが活性化される。このことで我々は意図した行動のために必要な情報だけを選別し、深く考えなくても半自動的に動作ができるようになる。例えば、私は自分に与えられた無限にある選択肢の中から、大学へ行くためには最寄りの蒲田駅で京浜東北線に乗り品川で降りて山手線に乗り換える。このとき、「品川では下車しない」や「品川から東北行の新幹線に乗り換える」といったスキーマは捨象されている。また、この一連の行動系列において私はあまり深く考えずに下位のスキーマを活性化させることで行動できる。

ATSモデルの考え方では、アクション・スリップをこのスキーマを順次活性化させていく過程の中で誤りが生じたものとみなしている。誤りは主に五種類に分けられる。一つ目の誤りはあいまいなスキーマで行動した際に意図しないスキーマが活性化されてしまう場合である。例えば、私は風邪をひいてしまったときにマスクを外そうとしたのに聞いていたi-podのイヤホンを外してしまうことがよくあるが、これは「顔から何かを外す」という曖昧なスキーマのもとで行動したため、普段から慣れているi-podのイヤホンを外すスキーマが活性化されてしまったのだと考えられる。

二つ目の誤りは、妨害によるスキーマの混乱であり、始め意図していたスキーマが活性化されなかったために元来あまり重要ではなかった始めの意図を忘れてしまう場合である。私は新しい新メニューの麺を食べようと思って食堂へ行ったものの、途中で友人に遭遇し少し立ち話をしているうちに新メニューの麺を食べようとしていたことを忘れてしまい、食堂ではいつも通りの自分が好きなおかずを頼んでしまうことがある。これは友人に遭遇して立ち話をしたという妨害によって「食堂で麺を売っているカウンターへ行き、新メニューの麺を注文する」というスキーマが活性化させなかったためである。

三つ目の誤りは、曖昧なスキーマのもとで行動したために、意図を見失いスキーマの活性化が消えてしまう場合である。私は以前コンビニエンスストアにその日のお弁当を買おうと思って立ち寄ったものの、好きな雑誌を立ち読みしてしまい、何も買わずにコンビニエンスストアを出てしまったことがある。これは、習慣になってはいない「コンビニエンスストアでお弁当を買う」というスキーマが本来の用事のついでに過ぎなかった雑誌の立ち読みをしている間に消えてしまったことによる。

四つ目の誤りは、行為の対象に対する注意が不十分だったために、誤った対象にたいして行動をしてしまう場合である。曖昧なスキーマで不注意に行動したために、行為を「する」ことに注目してしまい、行為が「抑制」できなかった場合である。例えば、私は四色ボールペンを使っているが、時々色ペンを使おうとしているのに、黒色で描いてしまうことがある。これは「板書を写す」という曖昧なスキーマのもとで行動してしまったため、何色で書くかまでは十分な注意が行き届いていなかったことによる。

五つ目の誤りは、自分の行為に対するモニタリングに失敗し、なした行為とすべき行為を間違える場合である。例えば、私は以前携帯電話を鞄に既に入れたのに、携帯電話を鞄に入れようと必死に携帯電話を探し回ってしまったことがある。これは、「携帯電話を鞄の中に入れる」というスキーマを既に行ったのに、まだ行っていないと勘違いしてしまったことによる。

 これらのスリップはいずれも行為に対する注意が低下した条件で起こりやい。スリップの対象になるのは高度に自動化された定型的な行動が多く、ほとんどは特に注意を払わなくてもこなせるので、注意せずになされ、何かのきっかけでスリップが生じやすいのである。また、習慣を変えようとするときは、すでに成立している定型的な行動を変えることになるので、活性化されやすい元の習慣が侵入しスリップを起こしやすくなる。二つ目の誤りの食堂の例はこれに当たる。疲労、寝不足、やストレスによる心身の状態の悪化も注意力を低下させ、スリップを起こりやすくする原因の一つである。

 さらに、スピード違反や作業手順違反などの規則違反もアクション・スリップを起こしやすくする。この背景には違反に甘く、ミスに厳しい社会がある。自動車の制限速度は時速四〇キロメートルであるが、実際はどの自動車も時速四〇キロメートル以上で運転しているにもかかわらず、過度なスピード違反でなかったら取り締まられることはない。一方で会社や学校ではミスは許させないことが多く、遅刻も厳しく取り締まられたりする。そのため、我々はミスを恐れて安全面などの理由があって定められたはずの規則に違反してしまうのである。電車の脱線事故はこの一例で、電車の運転手が遅刻というミスを恐れて、カーブでスピード違反をしてしまったことによる。そのゆえ、合理的で現実的な規則を定めて、ミスではなく規則違反を厳しく取り締まるべきなのである。実際、規則を厳しくすると返ってミスが増える可能性があるため、某会社は不良品を減らすために、ある程度のミスは仕方ないと甘受する方針をとるようにしている。

 つまり、アクション・スリップがどのように生じたにせよ、スリップを完全になくすことは不可能なのである。しかし、実際の致命的な失敗は、常に些細な失敗の後に起こるのである。些細な失敗をしてしまうと、ミスで処罰されることを恐れ、焦り、慌て、動転してしまい、“焦った気持ち”への対処に気を取られてしまい、適切な行動が取れなくなってしまうことが多い。これが致命的なミスの直接的な原因である。某大学で別の学部の問題を配布してしまった事件は、些細なミスを犯した者が慌ててしまい、連絡を取らなければいけなかった本部と適切な連絡が取れなかったことに原因があった。

 大きな失敗を犯さないためには、危機的な事態が発生したとき外的な事態そのものに対応するプロセスと、焦りや恐怖などの内的な感情に対応するプロセスとの二方面処理が必要になってくる。そのため、落ち着くことや焦りや恐怖などの感情から逃れようとする思いに気を取られてしまい、事態への対処がおろそかになってしまうのである。そのため、認知的な視野が狭まったり、限られた情報に過度に依存してしまったりすることで、ミスを正すための適切な対応ができなくなるのである。

 人間が危険(危機的な事態)に直面した際に感情の高まった喚起状態になるのは、もともとは全注意を危険に集中させ、生き残るための生物的な進化であった。これは人間が野性的な生活をしていた間は合理的であったが、環境が変化した人工的な現代では不合理になってしまったのである。

 ストレスへの対処でも同様に、ストレスの原因の直接的な対処(問題焦点型コーピング)および、衝動や緊張を緩和さるための対処(情動焦点型コーピング)のバランスの良い二方面処理が必要になる。

 アクション・スリップに限らず、様々なヒューマンエラーを防ぐための工夫として、ジェームズ・ギブソンは環境が人間の自然な動作に合うよう形態で人間に提供される(ヒューマン・アフォーダンス)の考え方を提唱した。例えば、椅子も切り株も「人間が座るためのもの」を人間に提供すると同時に、別の状況では椅子は高い所にあるものを取るための踏み台として使われることもある。

実際ヒューマン・アフォーダンスを取り入れたデザインや工業製品が増えてきている。家庭用の電気コンロで、実際火が付いているわけではないのに、コンロを付けるとコンロが赤く光るようになっているのは、火でものを温めてきた人間の従来の生活をもとにしたものであり、一目でコンロが付いているかどうか分かるように工夫が施されたものである。 また人間の失敗に限らず、多くの製品は事故や災害の際により危険が少なく、安定な状態になるような工夫(フェール・セーフ)が施されているものが多い。例えば、二つの蛇口をひねるタイプではなく最近の上下式の水道のとっては、災害時などで蛇口の上が周辺の物が落下したことにより塞がれてしまったときに水が止まるように、蛇口を上にあげると水が出るものが主流となっている。

 

 このようにスキーマの概念は、我々に日常の認識や行動の仕組みの理解の枠組みとなる。人の日常生活は経験を通じて蓄積された知識のモジュール、スキーマによって可能となっている。スキーマによって我々はたいていの情報を適切に理解し、明示されていない情報を補うことができるのである。一方で、スキーマは我々に先入観を与えたり、ユニークな発想を妨害したり、「分かったつもり」にされてしまうという問題点もある。また、行為に対する注意力が低下しているとスキーマが正常に働かないことがあり、アクション・スリップをもたらすのである。

 

 

スキーマセラピーとは

授業では主に日常生活におけるスキーマを取り扱ったので、私はより長期間の人の一生を通したスキーマについて考えてみた。そこでまず、「人生を通してのテーマやパターン」としてのスキーマの問題点に着目した、認知療法をもとに形成された「スキーマセラピー」について調べてみた。認知療法は、前述のスキーマの第二の機能を改善することを目的としていて、ある物事に直面した時に瞬間的に心に浮かぶ考え(自動思考)を現実に則して考え直し、クライアントの考え方をポジティブに改善していく方法のことである[2]。スキーマが形成される際に強い感情が伴っていると、その感情も一緒に覚え込まれてしまう。例えば、自転車に初めて乗った時に「運転は怖い」という極端に強い感情一緒に覚えこんでしまった人は、自転車のみならず、さまざま乗り物の運転に対しても、恐怖の感情を抱くようになってしまう。反対に、「運転は気持よい」という気持ちを強く感じた人は、自転車以外の乗り物のでも運転を気持ちよいと感じるようになる。しかし、実際はスキーマが形成されるときに湧き上がる感情は、状況や環境、およびその人自身の性格によっても異なるので、ある出来事に直面した時に浮かぶ感情も違いが出てくるのである。

そのため、同じ出来事に直面しても人によってとらえ方は異なり、人によってポジティブに考えることができたり、ネガティブに考えてしまったりする。ある物事に直面した時にどうしてもネガティブに考えてしまう人は、マイナスな思考パターンのスキーマが形成されてしまっているのである。スキーマは経験を通じて蓄積されたものなので、考え方(スキーマ)を修正するには時間がかかってしまう。そのため、まず自分の物事をネガティブにとらえてしまうスキーマを受け入れ、自分の考えを実際書きだすことで実際その考え方が合理的かどうか検証し、より現実に則した合理的な考え方をするようにするとよい。以上のようにクライアントの認知のゆがみを修正する認知療法はうつ病にたいして有効性が実証されている。

 

認知療法、行動療法、精神分析の対象関係理論、およびゲシュタルト療法の各要素を治療のために体系的アプローチとして統合したものとして、コロンビア大学、精神医学科の教授ジェフリー・E・ヤング博士によって開発されたのがスキーマセラピーである[3]。認知療法ではクライアントの否定的な考え方を正すことで治療を促進するが、実際の臨床の現場では、否定的な考え方だけではなく、もっと複雑なクライアントの人生全体を通じて問題があることに着目し、長期にわたる心理的なパターンを断ち切ることを意図してスキーマセラピーは開発された。

スキーマセラピーではスキーマの概念をより長期間に適応し「人生を通してのテーマやパターン」ととらえ、合計18のスキーマが特定されている。人によっては、子供のころから繰り返し現れる人生のパターンがあり、それ(スキーマ)がもとにトラブルに発展することが多いことに着目したのである。

スキーマの一例としてAbandonment(見捨てられ)というスキーマがあるが、これは「身近な人はいつ自分を置いていなくなるか分からない」、という不安を抱えている人のスキーマである。例えば、恋人が他に好きな人を見つけて去ってしまう、身近な人が死んでしまうというように、常に自分が置き去りにされるという不安を感じてしまうのである。そのため、例えばAbandonmentのスキーマを持った夫が自分の妻が電話でほかの男の人と話しているところを目撃したら、妻の言い分を聞かずに相手の男が妻の浮気相手のような自分にとって脅威であると思い込んでしまうのである。実際はこのような人は多くの場合、幼少期に親が何らかの理由で出て行ってしまったり、親がいても放っておかれたりしたといった経験がこのような認知の原因になっている。このようにAbandonment(見捨てられ)スキーマを持つ人の大多数は、子供にとって恐ろしい体験によって人から見捨てられることに敏感なパターンが確立され、折々の人間関係が上手く行かないなどというようにその出現が繰り返される。

この他にも典型的なスキーマとして、自分は誰からも愛されることのない人間だと感じるDefectiveness(欠陥)スキーマ、人を信頼できないMistrust Abuse (不信/不当な扱い)スキーマ、完璧主義者のUnrelenting Standards(容赦のない基準)スキーマなどが特定されている。

クライアントに自身の感情やそのような感情が生じた原因に着目するスキーマセラピーは、子供時代にその人の問題が始まっているか、顕在化していなくても心理的な問題の原因が幼児期に見出されるような人を対象にしている。特に人間関係において否定的、破壊的なパターンを繰り返したり、怒りのコントロールに問題があったりする人には、スキーマセラピーは特に有益であると考えられている。最近では、境界性人格障害、自己愛性人格障害、摂食障害、犯罪者等の治療、カップルセラピー、薬物依存の再発防止など、広範囲に渡って効果を上げている。

 

ライフサイクルの文脈で見たスキーマセラピー

 スキーマセラピーでは、クライアントが「幼いうちに形成された人生を通してのテーマやパターン」としてのスキーマを受け入れ、改善していくことを目標にしている。しかし、私には、「人生を通してのテーマやパターン」としてのスキーマは、スキーマセラピーのように幼い間に形成されるだけではなく、一生を通して経験とともに変化してゆくより可変的なものであるように思える。そこで以下では、人生を通してのテーマやパターン(スキーマの形成)を、ハヴィガーストが提唱したライフサイクルごとに考えてみたい。

 ハヴィガーストは「人には共通の生きかたがある」と考え,人間の発達段階に共通する発達課題を設定した[4]。すなわち、人間の誕生から死に至るまでを,「ライフサイクル」の発想で考え、人の一生における万人共通のスキーマを提唱したと解釈できる。ハヴィガーストは人生を6つの段階に分け,それぞれに対応する身体運動技能・認知的習得・パーソナリティ発達・各時期にふさわしい役割,などを含んだ具体的な発達課題の内容を掲げた。そこで、ライフサイクルの各発達段階の発達課題のうちスキーマ形成に関係があると考えられるものに注目し、各発達段階を通してのテーマやパターン(以下これを人生におけるスキーマと区別させるため「部分的なスキーマ」と呼ぶ)について考えてみる。

一番初めの段階である乳幼児期は、「社会や事物についての単純な概念を形成するとともに、両親や兄弟および他人に自己を情緒的に結びつける時期」である。この時期にあったことは記憶に残りにくいが、この時期の家族との関係および家庭環境が人格形成のもととなる。幼児期の悪い家庭環境が生涯に多大な悪影響を及ぼすとしている点で、ハヴィガーストのライフサイクルとスキーマセラピーの考え方は一致する。例えば、この時期に親の激しい虐待に遭い、両親と適切な信頼関係を築くという幼児期の発達課題を築けなかった子は、スキーマセラピーで特定された「人を信頼できないMistrust Abuse (不信/不当な扱い)スキーマ」が形成されてしまうだろう。

二段階目の児童期では「同年齢の友達との人づきあい、および男子(女子)としての正しい役割を学習すると同時に読み,書き,計算の基礎的技能を発達させる時期」である。児童期にあったことは本人の記憶に残るようになり、主に同性の同年齢の友達との関係および学校等における学業習熟度や自分の特技が部分的なスキーマ形成に最も影響すると考えられる。例えば、小学校のまだ学校で基本的なことを習っている時期に「学期末の成績表では国語・算数・理科・社会はすべて『よくできました』」の評価でなければいけない」と両親に強く指導され、自分自身に基礎技能の発達を自分の限界を超えて要求するようになれば、完璧主義者のUnrelenting Standards(容赦のない基準)部分的なスキーマが形成されるだろう。

三段階目の青年期は「疾風怒濤の時代」とも呼ばれ、「同年齢の男女両性との洗練された新しい関係を築けるようになると同時に、両親や他の大人からの情緒的独立し、経済的独立に関する自信の確立し準備する時期」である。この時期では子は親からの情緒的独立を強く求めるようになり、異性との付き合い方および自分に向いているポジティブなことを見つけられるかが部分的スキーマ形成に最も影響すると考えられる。例えば、青年期に自分が信じていた恋人に捨てられるのを繰り返して壮年初期を向えてしまった人は、自分は誰からも愛されることのない人間だと感じるDefectiveness(欠陥)部分的なスキーマが形成されてしまうことがあるかもしれない。

四段階目の壮年期は「結婚をして家庭を築くと共に経済的に自立する時期」である。経験がないのでよくわからないが、この時期では、生まれ育った家庭環境の直接的な影響は小さく、配偶者や自分の家庭および就職に対する満足度がスキーマに最も影響するのではないか。

五段階目の中年期は「おとなとしての市民的社会的責任を達成すると同時に、自分の身体の変化に適応する時期」である。最後の老年期は「肉体的な強さと健康の衰退に適応することと同時に、引退と減少した収入に適応する時期」である。人がこれらの二つの時期にはたどり着くまでには既にしっかりしたスキーマが形成されていて、この時期における発達課題の達成に応じで新しい部分的なスキーマが形成されるよりは、既にあるスキーマが発達課題の達成度に応じて変化するのではないか。

 

スキーマセラピーへの疑問

 以上のように、悪い部分的なスキーマが形成される主な要因は各発達段階において、その課題を達成できなかったことに依るのではないか。そして、真の人生のスキーマは発達段階に応じてのその比重は異なったとしても、これらの部分的なスキーマの集合体なのではないか。人がその時にいる発達段階に応じて、初めは身近な家族から徐々に外の社会へ、そして再び今度は自分が築いた家庭(主に配偶者)と変わっていく。それぞれの段階においてスキーマ形成要因が異なるため、その間に形成される部分的な人生のスキーマは必ずしも一致するとは限らない。以上の私の理解のもとに考えると、スキーマセラピーに対して二つの疑問が生じる。

第一の疑問は、スキーマセラピーでは悪いスキーマがすべて幼児期に形成されていることを前提にしているように思われることである。例えば、幼児期は家庭環境に恵まれていたとしても、児童期の後半に荒れた小学校に通い同年齢の女子(同性)のいじめを受けたために、Mistrust Abuse (不信/不当な扱い)部分的なスキーマが形成されてしまい、自分に対する自信を喪失しながら中学校に進学することになる。(これは自分自身の経験)また青年期に自分が信じていた恋人に捨てられるのを繰り返したならば、Defectiveness(欠陥)スキーマが形成されるかもしれない。このとき、青年期に形成されたDefectiveness(欠陥)スキーマの引き金となっているは幼児期ではなく児童期後半に形成された、Mistrust Abuse (不信/不当な扱い)部分的なスキーマである。

境界性人格障害、自己愛性人格障害、摂食障害、薬物依存に陥っている人などには悪いスキーマは幼児期に形成されたものに限らず、先例のようにその時点までに形成された複数の悪い部分的なスキーマの集合体がその人のスキーマとなってしまった人も含まれるのではないかと想像する。確かに人は生まれ育った家庭環境からなかなか逃れることができないということもあり、その人の人生に与える影響は大きいが、すべての人の悪いスキーマが幼児期における不適切な家庭環境に起因しているとは限らない。「すべての人の悪いスキーマが幼児期における不適切な家庭環境に起因している」という観点からクライアントに対応することそのものが先入観であり、物事の複数の解釈を妨害するスキーマの“副作用”と言えるように私には思える。(私のスキーマセラピーへの理解が不十分なのかもしれないが。)

 

第二の疑問は、スキーマセラピーに限らず、臨床心理学自体に対する私の疑問とも言える。ハヴィガーストが提唱した発達段階中に発達課題を達成できなくても、後々達成できれば、そのことによる無意識の劣等感などにより過去に形成されてしまった悪い部分的なスキーマも改善されるのではないかと思う。特にライフサイクルの発達段階の境目は大きな環境の変化や身体の変化を伴うので、悪いスキーマを断ち切る最大の機会である。例えば、私自身はMistrust Abuse (不信/不当な扱い)部分的なスキーマとともに中学へ進学したが、同じ小学校の人や、私の小学校時代を知っている人にいない中学校を選んだこともあり、新しい環境の中で自分への自信を回復することができた。そして、私は自分なりには同年代の異性にも好かれたし、英語の習得に励み、学校で与えられた勉強に打ち込むことで、自分は理系の勉強に向いていることを知ることで、ハヴィガーストの提唱した発達課題を自分なりに達成することができたように思う。

しかしながら、以前形成された悪いスキーマを改善し、正常なスキーマを形成するには発達段階においてその課題を適切にこなさなければならないとすると、そのためにはその発達段階に入る時にそのためのある程度の正常な精神状態にあることが必要なように思う。しかし、発達段階の境目という悪いスキーマを断ち切る絶好の機会に次の発達段階の課題に挑む精神力や社会性が十分でない場合はどうであるだろうか?スキーマセラピーは人間関係において否定的、破壊的なパターンを繰り返したり、怒りのコントロールに問題があったりする人に特に有益であると考えられているが、このような人達には、一度形成されてしまった悪いスキーマを断ち切るだけの精神力や社会性がなかなか持てない場合もあるのではないか。ある発達段階で一度形成されてしまった悪い部分的なスキーマが、次の発達段階でさらなる悪い部分的なスキーマの形成につながる悪循環を食い止めることは可能なのか疑問が残る。

 それだけではない。例えば、幼児期に共働きをしている両親に夜中泣いていても一度も構ってもらうことがなかった為にAbandonment(見捨てられ)スキーマが形成されてしまった子が、青年期までにそのスキーマが改善されることなく大学生になったとする。この際に親から自分が幼かった頃の両親の苦労を聞き、親なりに自分のことをとても大事にしてきたつもりだったことを聞いても、悪気がなかった親に対する恨みを捨てられなければ、Abandonment(見捨てられ)スキーマは改善されるどころか、さらに悪化してしまう可能性もあるように思う。

 このように、一度形成された悪い部分的なスキーマを改善するには、本人がそのスキーマを自覚しているかとは無関係に本人が「許す」ことも必要不可欠になってくる。これは本人にしかできないことであり、カウンセラーや精神科医が強要できることではない。いかにしてクライアントを望ましい方向に誘導するのか。特にクライアントがそのような誘導を拒んだり、誘導に同意したもののついて来られなかったりした場合はどうするのか。ここに、私はカウンセリングや精神医学そのものの限界を感じる。

 

スキーマとスキーマセラピ―:まとめ

この冬期過程の人間行動基礎論の授業および自習を通して、「スキーマ」の概念は、我々が無意識のうちに行っている日常行動(誤った行動を含めて)や人の生涯にわたったテーマやパターンの仕組みを理解し、さらには人生をより円滑かつ前向きに生きる手立てを考えることを可能にしてくれる可能性があることを学んだ。スキーマは一度形成されると変えにくく、そのスキーマの規模が大きければ大きいほど断ち切ることは困難である。同じ過ちを繰り返さないために、我々は一度自分の人生を振り返って自分の人生のスキーマを見出し反省するべきだと思った。

 

 

感想-レポートを通じて学んだこと

最後に、このレポートを通じて感じたこと・学んだことについて述べたい。まず、スキーマを選んだ理由は、後期の授業で取り扱った話題の中で、スキーマが自分にとって最も身近でわかりやすそうな概念に思われたからである。自分の生活の中のスキーマの例を思い起こすことで、スキーマという概念に対する理解を深めることができたと思う。また、自習の題材をして、スキーマセラピーという題材を選んだのは、今は立ち直ったものの、今までの人生の中で二度の大きな挫折を経験した自分にとって、何度か自分のネガチィブな自動思考および自意識過剰さには悩まされたことがあったからである。そのため、臨床心理学そのものに私は以前から非常に興味があった。とはいうものの、臨床心理学について今まで特に学んだことや、カウンセリングなどを経験したことはなかった。今回レポートを書くにあたって、スキーマセラピーについて調べることを通じて臨床心理学に対する興味はさらに深まったように思う。

自習はもっぱらインターネットを使った。インターネット上で見つけたスキーマセラピーについて要約した文章(「成長日記:ポッドキャストで学ぶスキーマセラピー」および「成長日記:スキーマセラピー:入門編」)は、ポイントをつかむのには効率的であったが、スキーマセラピーを提唱した本人へのインタビュー資料(「Wise Counsel Interview transcript: Jeffery Young Ph.D. on Schema Therapy」)からは、本人の言葉からでしか得られないスキーマセラピーの本質を見いだせたような気がした。ただ、今回使った資料の分量は少なく、より多くの資料にあたる必要があるのかもしれない。

最後に、考察や執筆に当たって、初めにレポートを書くことより校正の作業の方が大変であることを痛感した。今までは、レポートや論文などの自分の調べたことや考えたことについて文章で書くという経験が少なかったのである。校正をする過程で自分の文章を読み返すことで、自分の考えがより明確になりを整理できたと同時に、自分の考えを相手に伝わるように表現する良い訓練になったと感じた。



[1] だまし絵「婦人と老婆」の画像は<http://passo.jugem.cc/?eid=324> による

[2]「楽しくないのは非現実的なマエナス思考のせい?」:
http://allabout.co.jp/health/stressmanage/closeup/CU20040320A/index.htm

「スキーマを知ることが、自分をかえるためのポイント」:

http://allabout.co.jp/health/stressmanage/closeup/CU20040815A/ 

[3] 本節「スキーマセラピー」の記述は以下による

「成長日記:ポッドキャストで学ぶスキーマセラピー」:

http://deprimiert.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_fb9c.html 

「成長日記:スキーマセラピー:入門編」:

http://deprimiert.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_1903.html 

Wise Counsel Interview transcript: Jeffery Young Ph.D. on Schema Therapy」:

http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/raihusaikuru.htm#havinohattatu

[4] 「ライフサイクルから見た人間の発達」:

http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/raihusaikuru.htm